銀座デザイン協議会GINZA Design Council

銀座街づくりコラム

街区と建物

家康がつくった町割

家康が江戸城に入城した天正18年(1590)ごろの銀座は、ほとんど人家はなく葦におおわれた荒れた土地でした。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで全国制覇を果たした家康は、慶長8年(1603)、江戸幕府を開府すると同時に天下普請を開始します。その主な内容は、日本橋、京橋、新橋といった橋をかけ五街道の整備をすることと、日本橋から京橋にかけての町人地を整備することでした。銀座通りは日本橋から延びた五街道のひとつ、東海道の一部でもあります。

町人地の町割は、京間六十間(約120m)四方の正方形が一単位。銀座にも整然とこの正方形が並べられていきました。銀座は今もこの町割単位のサイズがそのまま残っていることが特徴で、たとえば銀座通りの西側を例にとると、1ブロックと、西に向かって2本の通りをすぎた並木通りまでが、この正方形の大きさに相当します。

正方形の中は、まんなかに会所地とよばれる空地をとって、通り沿いに奥行き20間の町屋敷が配置されていました。会所地が何に使われていたのか、はっきりとはしていません。(図1)

では町屋敷の中はどうなっていたかといえば、通り側に店が並び、路地を入っていくと両側に職人たちの住まいである長屋が並んでいました。(図2)

便所と井戸は共同でした。ここで住人たちは井戸端会議をしたというわけ…。今の銀座通りから町屋敷の中の様子を想像してみてください。間口3間~5間ばかりのお店の間の小さな路地をひょいと入っていくとそこに長屋が並んでいる。そんな風景が浮かんできます。戦後すぐまでは、小さな路地もいくつも残っていたはず。記憶にある方もいらっしゃるのではありませんか? そして今も銀座は、この120mのブロックと、このくらいの間口が基本になっており、独特の銀ブラのリズムをつくり出していることがわかります。

町屋敷は通りに面した両側でひとつの町を形成していました。これを両側町といいます。銀座では今でも「通り会」が、コミュニティのひとつの核となっていますが、これも江戸時代の名残りといってもいいかもしれません。(図3)

その後、明暦の大火(1657)によってほとんどが焼失し、江戸の町は再整備されました。そのときに、新道(しんみち)として、銀座通りと並木通りの間の2本(今の金春通り・すずらん通り、ガス灯通りにあたる通り、西五番街や銀座レンガ通り、見番通りにあたる通り)がつくられたのです。(図4)

町屋敷の内部も変化していきます。この時の街区構成が、現在も残る基本的な銀座の町の形であることがよくわかります。

銀座は明治近代化とともに歴史の表舞台に現れ、そして西欧文化をいちはやく取り入れたモダンな街とされていますが、こんなふうに江戸の歴史が折り重なって今も生きている街でもあるのです。