「銀座」の地名は、銀の鋳造所があったことに由来します。もともと徳川家康のお膝元、駿府に設けられていた銀座役所が、現在の銀座2丁目付近に移転したのは慶長17年(1612)のこと。当時の町の名前は「新両替町」で、「銀座」というのは通称にすぎませんでした。
その後、銀座役所は不正を犯したため、寛政12年(1800)、日本橋蛎殻町に移転させられてしまいました。それでも「銀座」という通称は残ったというわけです。
正式な町名としての銀座が誕生するのは、明治2年(1869)のことで、1丁目から4丁目までが誕生しました。そのほかの場所には、それぞれ個性的な名前がついています。たとえば今の銀座通り5丁目、6丁目は尾張町、7丁目は竹川町、8丁目は出雲町と南金六町というように。銀座は職人町でしたので、それぞれの町名に由来や特徴がありました。(図1)
大正12年(1923)、関東大震災によって銀座の大半は焼け野原となってしまいます。そして、震災後の区画整理によって、昭和5年(1930)、銀座と銀座西のそれぞれ1~8丁目に統合されました。ここで「銀座八丁」という言葉が生まれます。(図2)
さらに戦後、昭和26年(1951)には、空襲の瓦礫処理のために三十間堀が埋め立てられ地続きとなった木挽町が「銀座東」となりました。そして昭和43年(1968)、銀座西が銀座に、翌年銀座東が銀座になり、現在の銀座の住所区域が生まれたのです。(図3)
旧木挽町と旧銀座では、祭祀神社も日枝神社と鉄砲洲稲荷神社と違っています。また旧木挽町は江戸時代には大名屋敷が並び、明治以降はお屋敷街でしたが、旧銀座は江戸時代は町人地、明治以降も商業地でいた。敷地割りの様子や土地利用のしかたも違っています。 現在の町会の分かれ方も、この町名の変遷の経緯がもとになっています。
同じ銀座のなかでも、成り立ちや特徴は違っているのです。