銀座通りと晴海通り沿道の店舗を会員とする銀座通連合会が設立されたのは1919年(大正8)のこと。もうすぐ百周年を迎えます。
大正時代も中期に入って東京の町では、バスや鉄道の交通機関網が発達し始めていました。そんな中、銀座通りの車道を拡幅するため、街路樹の柳を撤去する計画が持ち上がります。この時、銀座通り沿道の住民達が、銀座の風物詩となっていた柳の撤去に反対して「京新聯合會」を立ち上げ、これが現在の銀座通連合会の前身となったとされています。
この反対運動は実らず、明治の銀座煉瓦街ができてちょうど50年を迎えた1921年(大正10)、街路樹の柳が撤去されてイチョウとなり、車道幅が拡大され、車道は木煉瓦舗装として再整備されました。通りが新装された12月、銀座四丁目角で銀座50年祭が行われました。
この年12月15日付けのやまと新聞は、付録として「銀座祭記念号」をつけてその様子を知らせていますが、その下に「京新聯合會設立経過の概略」という記事がのっています。
その記事によれば、「以前、銀座は街路や街路樹も整然として、東京における代表的市街として繁盛していた。ところが、新橋駅が廃止され、他の街の建築がだんだん立派になって、日本橋や神田も繁栄してきた。そこで、銀座の商人達も善後策を考えようとしていた矢先、大正8年9月の深夜11時頃、汐留駅から魚河岸に魚を運搬する貨物自動車があまりにうるさいので、銀座10カ町が聯合してこの廃止を嘆願した。これが京新聯合會設立の動機となった」とあります。
柳の反対運動とはだいぶ動機が違いますが、いずれにしても自動車交通の発達が、沿道住民の一致団結に一役買っていたことは間違いないようです。
さらに、やまと新聞によれば、会員は銀座通りの「両側の商店残らず加盟し現在248名」。目的は「日本一の銀座の繁華を永久に保持し且模範的商業区域たらしめる」「即ち街路の美観、設備、交通の安全、露店の保護、親睦等」とあります。この目的はまさに、現在にも通じるもの。銀座は100年間、同じ思いを貫いて来たことがわかります。