大正12年9月におこった関東大震災は、東京の街を一変させました。銀座でも、煉瓦街がすべて焼けてしまいます。不燃化をめざして建設された煉瓦街は、実は地震では大きな被害はなく、けっきょく火事で焼けてしまったのです。
銀座通連合会の前身である京新聯合会はただちに銀座復興策を打ち出し、各店舗が一時、罹災地を離れて移転するという消極策を抑え、「商店は従前のところで開業すること」という決定をだしました。そして、建物は二階建のバラックとして10月中旬に完成させ、11月早々に年末大売り出しを開始することに決めました。
永井荷風門下の慶應義塾生として学生の頃から銀ブラに親しんだ作家、水上瀧太郎は、実在の料理屋「はち巻岡田」の主人をモデルに、銀座の人々が関東大震災からの復興に立ち上がる様子と心意気を『銀座復興』(昭和6年)という小説に描いています。
あらすじはこのとおり。
震災後の銀座の焼け野原で、二人の旧友同士が出会います。一人は銀座に生まれ育ち、山徳という装身具店二代目として贅をつくしてきた若旦那の山岸。彼は、銀座はもはや復興しないとあきらめ、郊外に引っ越して商売もやめると消沈しています。もう一人は山の手に住み丸の内に勤める会社員の牟田。牟田は今こそ東京を建て直す絶好の機会であるととらえ、銀座も必ずや、より贅沢な繁華街として復興すると信じています。
二人の話はかみ合わずその場で別れ、牟田は歩き出しますが、裏通りにトタンと葦簾で組み立てた小屋を建て、いちはやく商売を復活させようとしている料理屋「はち巻岡田」の夫婦に出会います。亭主は、「銀座は前よりも立派になる」という牟田に向かって、「復興しないったってさせてみせらあ」と固い覚悟を示すのです。
「銀座は、銀座病の人々に取って、我家の外の我家であり、東京の人間の共同の庭」であると感じる牟田は、「人々よ、われらが銀座を建て直せ、(中略)以前にまさる帝都の公園としろ、心をあわせて復興しろ」と絶叫したい心持になります。亭主は「あたしゃあ銀座の御世話になっているんだから、復興の露払い位つとめなくちゃあ申訳がないや」と、「むきになって、銀座復興を促進しなければ駄目だという事を説」きながら、焼け野原で料理屋を続けます。
一月ばかり後に、町の顔役が訪ねてきて、「みなさんと相談した結果、みんな気を揃えて、せめておもて通りの店だけでも軒を並べて見せようじゃあないか」と意見がまとまったので、銀座復興会という会をつくり、会長とか副会長に「丸八さん、資生堂さん、山徳さんといったような、古い、由緒ある方々」に出てもらい、「京橋から新橋迄のあきんどは、遅くともこの月末までに、バラックだろうが葦簾張りだろうが、兎に角家の格好をしたものを建てよう。それが立ち並んだところで、復興記念売出ってのをやろうじゃないか」というのです。
翌月から銀座復興会の活動が始まり、バラックが立ち並んでゆきます。復興会の努力で水道、電気も復旧します。いよいよ11月1日の復興売り出しの日、「はち巻」に集まり復興を祝う席に山岸があらわれ、銀座はもうだめだと思っていたが、こうして銀座を訪れてみると「自分も矢張銀座の人間なのだ。よしんば此儘失敗しても、もう一度地震がきておしつぶされても、銀座の土になってやろう」と決意を語ります。そして一同は「銀座復興万歳」と叫びながら、明るい銀座大通りに繰り出してゆくのです。
この小説は敗戦後、つまり今度は空襲によって銀座が焼け野原になった後、久保田万太郎によって脚色され舞台化され、好評を博しました。 「銀座病」あるいは「我家の外の我家」「東京の人間の共同の庭」という表現はおそらく、銀座に客として慣れ親しんだ作者水上の心情を表す言葉そのものであったことでしょう。そして当時の来街者たちの思いを映すものであったように思われます。
モデルとなっている「はち巻岡田」は今も銀座にある料理屋さんです。また資生堂や丸八も、当時もそして今も実在の地権者さんです。実際に復興大売出しを行っていることから考えても、この小説はかなりの部分を事実に取材しているものと考えてよいのではないでしょうか。銀座で商売を営む者、古い由緒ある人たちや顔役、老舗の若旦那、丸の内で働くサラリーマン、新聞記者等々、当時の銀座にかかわる人々の立場が鮮明に描かれており、銀座を思う強い気持が伝わってきます。